ソラ-ボクたちの絆-

アクセスカウンタ

zoom RSS 阪神淡路大震災から20年

<<   作成日時 : 2015/01/17 05:46   >>

ガッツ(がんばれ!) ブログ気持玉 10 / トラックバック 0 / コメント 0

1995年1月17日5時46分

この日時は一生涯忘れることはない。阪神淡路大震災。

神戸の外れで被害がかなり少なかった地域とはいえ、その当時神戸に住んでいた私にとっては、その目に、その耳に、そしてその心に大きく刻み込まれた出来事です。
3.11もまた大きな衝撃ではありますが、やはり直に変化に触れ、直に見たこととの差は歴然。こればかりは実際に経験した人にしか解らない何かがあります。
あの時のことを思い浮かべると涙が込み上げてくることがありますが、毎年今日だけはあの時のことを書き続けるたい。それが次の世代へ震災を繋いでいく、小さいけど欠片になるはず・・・。
20年となる今年、改めて当時のことを書きたいと思います。


当時、私はまだ高校生でした。
遠距離通学だった上に、その日は冬休みの宿題確認テストの日でいつもより1本早い電車で行こうと、朝食を食べ終えようとしている時に、それはやって来ました。

ど〜ん・・・。

どう表現すればいいのか良くわかりませんが、大きな衝撃があったのだけは覚えています。
日頃の防災訓練のおかげか、咄嗟に食卓の下に身を置いていました。
激しい横揺れ。
真っ暗で何も見えず、正直頭の中は真っ白でイマイチ記憶がはっきりしていません。ただ、揺れがおさまるまで、本当に長く感じたのは確かです。

揺れがおさまると、真っ暗闇の中、母親と無事を確認。
その後も度重なる余震。不気味な地響き(地下鉄で電車が近づいてくる感じ)とともに余震はやって来ました。ただただ明るくなるのを待つしかありませんでした。

1時間くらいしてようやく明るくなってきました。幸いわが家は無傷。棚から物が落ちたりした程度でしたが、お風呂に貯めていた残り湯は地震の衝撃で栓が抜けて空っぽに。大きな家具も倒れはしなかったものの、10センチくらいはズレていました。

少し落ち着いてきたところで、あっ!学校?と思いました。なんせ大きなテストの日でしたからね。
ダメもとで駅まで行ってみると、当然電車は動いてはいませんが、駅近くの壁面は崩れ、道路の真ん中から水が噴水の如く勢いよく吹き出し、余震の度に屋根から瓦が落ちて割れる音があちこちで聞こえ、信号は消え・・・。
そこにはいつも見慣れた朝はありませんでした。

衝撃はそれだけでは止まりません。わが家は幸いにも電気も水道もガスもその日に復旧しました。再びついたテレビに映し出された光景に衝撃を受けました。
よく行っていた街の変わり果てた姿。私がその日、約50分後にはそのエリアにいたはずでした。地下鉄で崩落した映像。まさにそこを通過していたはずでした。
あまりのショックに震えが止まらなかった。


そのあとは微差が大差なのをいろんなとこで実感します。

地震の際、棚から落ちてきたものは私の横、僅か十数センチでした。あれが当たっていれば・・・。

うちではその日中に復旧したライフラインが200メートル先のエリアは復旧に2〜3日かかりました。

1週間後、電車がある程度復旧するまで学校に泊まることになり、いつもは2時間程度で行けた学校に迂回ルートで3時間半かけて行きました。神戸の市街地からなら通常40分、50キロほど離れた姫路市。
そこで目にしたのはあまりに神戸と違う光景。神戸ではスーパーに行っても棚はスカスカで、最低限の水やレトルト、パン等、聞いたことがないメーカーのものしかなかったのに、姫路では以前と変わらず。店頭には防災対策と名打って、防災グッズ、カセットコンロ等が積まれていたことは衝撃でした。対策ではなく、いま欲しい人がいるのに・・・。
そんな姫路では銭湯で余震を気にすることなく、ゆったり銭湯でお湯に浸かることが出来ました。神戸ではお風呂に入れない人がいる中、こんなにお風呂が幸せなことなのかと感じました。

2週間後に電車がかなり復旧してきたので、家からの通学を再開。長田を通れば、道路を挟んで焼けた家、残った家がありました。たった道路1本・・・。


通学するようになると、変わり果てた市街地をたくさん目にしました。
復旧した電車から見た長田は、教科書で空襲のあととして写真で見たような、焼け野はらが広がっていました。まさに白黒の世界で、言葉にならなかった。それは電車に乗っていた皆が感じたのでしょう。電車内のあの空気感は後にも先にも感じたことがないものでした。

電車が復旧したとは言え、まだまだ不通区間があった当時。阪神間は優先レーン等、徐々に改善しましたが、それ以外までは手が回らない。電車で5分の区間で、代行バスに乗るのに30〜60分、ぎゅう詰めのバスで渋滞にはまり、さらに30〜60分ということもありました。そんな時はその区間を40〜50分かけて歩いていましたが、あったはずの建物が崩れているところも多く、幹線道路から外れるとぺちゃんこに崩れて道路を塞いでいて、そんな家の瓦礫の上も歩いていました。
あの頃の通勤スタイルはリュックとスニーカーという方がかなり多かったのを記憶しています。

そして、2ヶ月くらい経つと被害の少なかったうちのエリアには空き地や公園のグランドに仮設住宅が建ちました。
家を失った人、以前からの家にいる人。仮設と普通の一戸建て。市街地にいた人、郊外にいた人。そんな人々が隣り合わせにいるのは何だか不思議な感じがするとともに、同じ神戸にいたのにこんなに差があることに強く申し訳ないという感じを受けました。


そんな差を感じた中であって、何より感じたのは人の温もりでした。

余震が続いていたので、いつもはバラバラに寝ていた家族が同じ部屋で寄せあって寝ると、いつもはあまり感じなかった家族の温もりを感じました。

学校に泊まることになった時は、周辺に住む同級生の母親の方々が夕飯を作りに毎日来てくれました。

街でもたくさんの温もりを感じました。みんなお互い様。
モノが少なかったスーパーで買いだめしようとする人はまず見かけませんでした。
ぎゅう詰めの代行バスでは声を掛け合って、ひとりでも多く乗れるように詰め、また乗り降りも声を掛け合って、一旦降りたりをみんなでしていました。

代行バスが渋滞で諦めて歩いていると、学生など子供に対しては一緒に歩こうか・・・と歩いてくれる方もいました。

震災から7ヶ月後、ようやくいつもの通学ルートが復旧し、いつもの電車に乗った時、以前から同じ駅で同じ電車に乗っていた(でも話したことがなかった)方々数人が「元気そうでよかった・・・」と嬉しそうに声をかけてくれました。

震災以降、正直、精神的には不安定になり、精神科に行ったこともある中、震災から半年ほど経ったある休みに同級生の誘いで、仮設住宅へのボランティアに行く機会がありました。
申し訳ないとの思いを抱えていた私でしたが、そこで子供たちが一緒に遊んでとせがまれて、遊ぶと彼らの笑顔にホントに元気をもらえた。
その親御さんが嬉しそうに「いつも構ってやれないから」と御礼を言ってくれた。
こちらこそ「ありがとうございます」と言いたいのに・・・。


人との触れ合いって、こんなに温かかったんだ・・・。

実はそれまでは神戸はあまり好きじゃなかったんです。
小学校高学年で和歌山から転校してきた時、田舎もんだとイジメに遭い、その時は死にたいとも思いました。
別に都会が偉いとも思わないし、神戸の外れで決して都会ではないではないだけに、今思えば可哀想な方々だと思いますが、当時はそんな奴等がいる神戸が嫌いで、2時間もかかる姫路まで通っていたわけですが、あの震災で触れた人の温もり、負けない強さに、神戸を故郷として好きになれた気がします。

たくさんの命が失われた震災ではありますが、そんな震災を通じて、生きる力をもらった人間もいるのです。


かなり文字の長いブログになってしまいましたが、最後に一言。

生きてこそ・・・。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 10
ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!)
ナイス ナイス

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
阪神淡路大震災から20年 ソラ-ボクたちの絆-/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる